備中高梁学習観光ー夢の旅路

伝統を探る 備中神楽・備中松山踊り

備中の伝統

受け継がれた数々の伝統備中神楽の勇壮な舞 備中松山踊り
人々の願いをかなえ、楽しませてきた伝統行事。
高梁の地に古く親しまれ、今も愛されている伝統行事を紹介します。

勇壮な舞で五穀豊穣を願う「備中神楽」

備中神楽は、国指定重要無形民俗文化財に指定されている、高梁を代表する伝統行事です。
江戸時代末期の学者・神官であった高梁出身の西林国橋(こっきょう)が、神官による神事の舞が中心であった神楽を、古事記・日本書紀の神話を元に、芸能性・民族性の強い神代(じんだい)神楽を創作したといわれ、各神社の宵祭りに「宮神楽」と呼び盛大に行われてきました。
現在では五穀豊穣、家内安全を願い、地域の各神社の秋祭りで奉納され、岡山県を代表する郷土芸能として全国に知られるようになっています。

備中たかはし松山踊り

備中たかはし松山踊りは、県内最大規模のお祭りです。
毎年8月14日から16日の3日間、駅前大通りで開催され、前夜祭として「ひぶた祭り」なども行われます。
3日間を通して数万人の人手があり、県下最大規模を誇る夏祭りとなっています。
備中たかはし松山踊りは、やぐらを中心に輪になって踊る「輪舞式」の代表的な踊りです。輪の中に入れば誰にでも容易に踊ることができます。
備中たかはし松山踊りの起源は、江戸初期、藩主・水谷勝隆の時代から踊り始めた「地踊り」にあるといわれています。そして、この「地踊り」と江戸中期の藩主板倉勝澄が始めた武士の踊り「仕組み踊り」とが合わさって「備中たかはし松山踊り」となりました。

渡り拍子(わたりびょうし)

岡山県西部一帯から、広島県東部に伝わる秋祭りの供奉楽として伝承され、現在は宇治町、松原町、備中町など市内各地で行われています。花笠、女衣、袴、襷がけの衣装で、太鼓を4人で打ち、拍子木、鉦(かね)など打ち鳴らして乱舞する姿は勇壮です。

渡り拍子


成羽愛宕大花火(なりわあたごおおはなび)

今から約300年前の宝永元年(1704)成羽藩主山崎義方が愛宕神社に勧請のため奉納したといわれる花火で、毎年7月下旬、成羽川河畔で行われます。特に中国地方随一といわれる勇壮華麗な仕掛け花火は壮大なもので、多くの人々を魅了しています。

成羽愛宕大花火


赤韋威鎧 兜大袖付
(あかがわおどしよろい かぶとおおそでつき)

平安時代末期、源平合戦の頃、武士が実際に着用した鎧です。承久の乱の後、信濃国(現長野県)から備中国(現高梁市宇治町)に赴任した地頭の後裔の家に伝わりました。国宝に指定されています。

赤韋威鎧 兜大袖付


絹本着色 釈迦三尊像
(けんぽんちゃくしょく しゃかさんそんぞう)

釈迦如来を中心に置き、左に獅子に乗った普賢菩薩、右に象に乗った文殊菩薩を配した仏画です。頼久寺に伝来し、鎌倉時代の作と考えられています。国の重要文化財に指定されています。

絹本着色 釈迦三尊像


保月山六面石幢
(ほづきさんろくめんせきどう)

幢とは、縦に長い旗で、それに仏の像や教えを書いて仏を供養したものです。その旗を6枚合わせた形を石に表現したのが六面石幢です。優れた石幢の作例として貴重なものです。奈良の石大工井野行恒の名作で、嘉元4年(1306)につくられています。国の重要文化財に指定されています。

保月山板碑(ほづきさんいたび)

保月の板碑(仏の供養のために建てられた石塔婆の一種)は、花崗岩でできていて、奥行きが厚く、高さ315cm、幅43cmと、この様式では最大級に属するもので、釈迦、阿弥陀、地蔵の三尊が見事に彫られています。嘉元3年(1305)井野行恒の作です。国の重要文化財に指定されています。

左:保月山六面石幢/右:保月山板碑

左:保月山六面石幢/右:保月山板碑


笠神の文字岩(かさがみのもじいわ)

鎌倉時代に成羽川の急流に舟路を開削した時、あまりの難工事だったために、その経緯を刻んで後世に残した記念碑です。今ではダムの建設のために水没していますが、県道沿いに展望公園を築き、模造石を残しています。国の史跡に指定されています。

笠神の文字岩



inserted by FC2 system